2015年02月15日
リーダーシップって何だろう?
最近はリーダーシップ論が盛んで、
書籍やセミナーなど様々な学ぶ機会が
提供されている。
自分も最近ちょっと学ぶ機会があり、
いろいろと聞きかじってきた。
講師の先生によると
リーダーシップの本質とは、
「何をしてもらいたいのかという問いに対し
きちんと答えること」だという。
そんなの当たり前じゃないか
と思うかもしれないが、
意外と職場ではこれが行われていない
のだそうだ。
例えば会社には達成すべき目標があり、
それは明確に示されている。
だが、それはただゴールを示しているだけで
建物でいう完成予想図に過ぎず、
それだけでは人は動けない。
リーダーは道筋を示し、
舵取りをしなくてはならないが、
その場面で多くのリーダーは
「どうしたらいいか」の方法論だけを示し、
「チームとしてなぜそれをやろうとしているのか」、
「チームとしては何をしたいのか」
を示していない。
部下にとって最も困った上司は、
「何をしてほしいのか明確に示さない上司」
であるという。
建物の建築に例えると
リーダーシップは設計図に相当し、
方法論=マネジメントは建築手順に
相当する。
どちらも不可欠だが、
設計図を示さずに建築手順だけを
指示しているのが世の多くのリーダーなのだ。
そして設計図は、リーダーにしか
示せないのである。
このリーダーシップ、
会社全体に置き換えると
「経営理念」とか「指針」に相当する。
かのドラッカー博士によれば
「リーダーとはフォロワー(ついて来てくれる人)
が居ること」だそうである。
―追伸―
本ブログは、昨年9月1日よりスタートし、
本日で164回となりますが、
設計図に沿わない記事も多く、
コンセプトに対し曖昧になっていました。
よって、本日をもっていったん終了し、
以後はよりコンセプトを明確にしたブログとして
再開する予定です。
短い間でしたが、ご愛読誠にありがとうございました。
なお、引っ越し先はあらためて掲載します。
2015年02月14日
労働市場の人手不足は不景気になっても恒常化する
ハローワークの有効求人倍率を見ると
一倍を超えている職種が圧倒的に多くなった。
つまり求人の方が求職者数より多い、
労働者売り手市場になってきている。
バブル以降の不況の中で、
企業は正社員をパートなどの非正規雇用者に
置き換え、人件費を削減してきた。
職務内容も、
かつては正社員がやっていたことを
パート社員にやらせるようになり、
賃金は抑えたまま生産性を上げてきた。
だがこれからの時代はその図式が
成り立たなくなる。
昨今の人手不足は一過性のものではなく
間違いなく恒常化する。
たとえ景気が悪化しても
人は集まらなくなる。
それは現在の人手不足が日本社会の
構造的な理由によるものだからだ、
日本の労働人口は、
すでに減少の一途をたどり、
65歳までの雇用延長でなんとか
表面化させずにやり繰りしてきた。
だがそんな制度的対応も、
団塊世代の65歳到達で一気に
崩壊する。
例えば2013年10月に64歳だった人は
223万人と推計されているが、
この人たちが年金生活に入るのと入れ替わりで
就業する若年人口はたったの120万人なのだ。
単純計算で差し引き100万人も
労働人口が減ってしまうことになる。
ブラック外食産業は
いち早く人手不足の洗礼を受けたが、
人手不足はいずれ大企業を含む
全業種に拡散する。
待遇が悪ければ人が集まらず
定着もしない。
となれば、
企業は腹をくくって、
今のうちに世間に先んじて
非正規雇用者の待遇改善をしてもらいたい。
待遇というのは賃金や福利厚生
だけではなく、
働ける時間帯や働き方、
働く場所を含むすべてのことである。
そうでないと残ってほしい人から
辞めてしまうことになる。
2015年02月13日
高齢者の就業機会増大には賛成だが条件がある
若い世代の社会保障給付の負担を
軽減するためには、原資が同じなら
高齢者への給付を減らすしかない。
だが高齢者への給付を減らせは
生活保護給付が増え、
全体としては減らないことになる。
それではということで、
高齢者の就業機会を創出し、
給付を給料に置き換えようという
考え方に最近はなってきている。
高齢者が自分で所得を得られれば、
公的年金の支払いを縮小でき、
同時に若い世代の負担象も緩和できる。
さらに生産性の高い仕事はできるだけ
若い人にやってもらい、
生産性の高くない仕事は高齢者に
やってもらえばいいという人もいる。
高齢者自身も稼げるようにすれば
給付対象から逆に社会保障原資の
納付対象になるというのは正しいだろう。
だが、自分はそれには条件がある
と思っている。
それは働き方にもっともっと多様性を
もたせることである。
高齢者は、働きたいという人でも
身体的、精神的理由からフルタイムで
働くことを望んでいるとは限らない。
それに会社勤めの場合、
長時間の通勤は若い人より
はるかに苦痛である。
日本の職場では、
ジョブディスクリプションが不明瞭で、
ジェネラリストばかりを育ててしまうが、
本来はもっと職務の切り分けは
可能なはずである。
子育ても住宅ローンも終わっている高齢者は、
若い世代ほどの給与は必要としない。
だが、働かなくなると社会との接点も
無くなってしまうので
少しでも働きたいとは思っている。
そこに時間や場所など多様な働き方を
提供することが高齢者就業には
不可欠の条件である。
2015年02月12日
学生時代にぜひ身につけておきたいスキルとは?
東洋経済のキャリア相談のコーナーで、
学生時代にどんなスキルを身につけたらいいか
という学生の質問を見た。
質問をした学生さんは、
偏差値の高くない大学の学生で、
出身大学による不利を心配しての質問である。
回答者の方は、
社会人必須のスキルである
Excel, Word, Power Pointなどの
MSソフトの操作スキル、
英語以外の外国語の修得、
物事の見方や考え方を鍛えること
などを奨めていた。
どれも正しいだろうが、
もっとよい答えも他にたくさんありそうだ。
自分の経験からアドバイスするとすれば、
断然コミュニケーションに関するスキルを
磨くことを推奨する。
コミュニケーションといっても
飲み会の企画や誰とでも仲良くなれる
といった類のことではない。
磨く価値のあるコミュニケーションスキルとは、
プレゼンやスピーチなどの
パブリックスピーキングのスキルである。
学生時代に数多くプレゼンを
経験している人もいるだろう。
だが、年齢や職業、属性の異なる
様々な人の前で、
人々の心を動かすパブリックスピーキングは
そうは経験が無いはずだ。
だが、営業職はもちろん、
経理業務や開発などの技術職においても
コミュニケーション力が極めて重要だ。
ビジネスの世界では、
社内業務を含め一人だけでは達成できない
仕事ばかりである。
職種や状況によっては
別の企業との共同作業も
頻繁に行われる。
そんな時、コミュニケーションスキルの
差が結果に大きな差異を生む。
コミュニケーションスキルは
ノウハウを学び、経験を積めば
どんな人でも身につくものだ。
学生時代にそれを多く身につけておけば
社会人となって後、
大変助かることが多いだろう。
MSツールや外国語の修得も良いが、
すぐに使う必然性が無いと
なかなか身にはつかないものである。
これから社会人となる学生さんには
ぜひぜひコミュニケーションスキルを
つけることをおススメする。
2015年02月11日
労働生産性向上の美名の下、仕事の中身がハードになっても処遇が変わらない人たち
一般的に企業には総合職、一般職
という区分があることが多いが、
その違いとはいったい何だろうか。
まず、転勤があるとか無いとかの他に
待遇面で歴然とした差がある。
一般職には昇進昇格が無く、
あっても極めてゆっくりで
管理職などに就くこともない。
一方総合職は順調に昇進すれば
給与も増え、幹部になれることもある。
しかし、総合職と一般職の
職務内容の相違はどんどん小さくなり、
今はあまり見出せなくなっている。
かつてののどかな時代の企業には、
一般職の女性が「お茶くみ」とよばれる
始業時に社員にお茶を配る習慣があったが
今はそんな仕事も絶滅した。
労働生産性向上の美名のもと、
かつて総合職がやっていた仕事を
一般職の人がやるようになった。
そして一般職がやっていた仕事は
派遣社員やパート社員が担うことになった。
労働生産性を高めたと言えば聞こえは良いが、
それに見合う賃金や待遇の改善は無いのだから
雇用側にいいようにやられているとも言える。
特にパート社員においては
かつて総合職や一般職正社員が
やっていた仕事をやるようになっても
待遇の改善は微々たるものであることが多い。
へたに一所懸命やって時間内に
たくさんの仕事をこなそうものなら
次にはその実績がベースとなって
さらに仕事の量を増やされてしまう。
竹中元大臣など
「正社員というくくりこそ無くせばいい」
と相変わらず暴論を吐いているが、
このような実態のもとで
バカげた規制緩和をすれば
雇用側の思うつぼである。
自分が思うに企業も長い目で見た
「無用の用」を考えるべき時だ。
雇用側の勘違い、あるいは誤魔化しは
「働く者は誰もが経験値を高め
スキルアップしたいはずだ」
「たくさん働いてたくさんの報酬を得たいはずだ」
と思っていることだ。
スキルアップさせてあげるからという名目で
どんどんムダな時間を省いて
ぎっちり仕事を詰め込もうとする。
しかし世の中誰もがそう思っているわけではなく、
仕事量も増やさず、難易度を上げてもらわず
同じペースで働ければよいという人もいるのだ。
どうしてもたくさん働かせたいのなら、
待遇面でもそれを反映させるべきだが
実際にはそうならない。
そんなムダは今の厳しい時代許されない
との意見もあろうがそうは思わない。
だが人は機械ではない。
時にはゆっくりのんびりした仕事もあって
バランスが取れ、仕事も長続きするのである。
回転率の悪い商品を棚から無くし、
売れ筋だけを置いた大手量販店が衰退したように
「無用の用」を持てない企業の
末路もまた同じであろう。
2015年02月10日
坪田信貴先生のセミナーに行ってみた④
目標を数値化し、日々の進捗も
数字で達成度を記録していくというのは
目標達成のためのごく一般的な手法だ。
だが、ビリギャルの坪田先生のやり方は
もっと徹底している。
たとえば挨拶で
「大きな声であいさつしよう」
などとけっして言わない。
先生の塾には音量測定器があり、
「測定器から1mの距離で80デシベルの声で
挨拶しよう」などと指導する。
冗談のような話だが、
数値化されない目標や指示は
受取る側の主観に左右されるため
目標にならないからである。
ビジネスでいえば
「もう少し頑張れ」ではなく、
「今月は前月比110%まで売ろうよ」
と言うようなものである。
そして坪田塾では数値目標に対して、
「100点を目指しましょう」ではなく、
「前回より〇%高い点を取りましょう」と言う。
前回より〇%と設定すると、
数値がわずかであっても複利計算になるので、
毎日やっていくと結果として大きな伸びになる
ことがわかっているからだ。
坪田塾で徹底しているのは、
「良い所出し」、「加点主義」「プロセス重視」、
「失敗の許容」、そして「感謝の伝達」の5つだそうだが、
そこにはこんな数値目標のたて方が
ベースになっている。
2015年02月09日
坪田信貴先生のセミナーに行ってみた③
物事において成功するためには
目標設定が重要であるとは
誰でも知っていることである。
だが、多くの場合、この目標設定が
適切でないとビリギャルの坪田先生は言う。
一つは、「自分の今のポジションから
想像できる範囲の中で目標を選んでしまうこと」
である。
偏差値38だったビリギャルも
当初は慶大現役合格など当時の彼女にとって
想像できない範囲にあることで
目標とは考えなかった。
しかし、目標設定の段階で想像できる
範囲の目標を選んでしまうと、
本人のモチベーションは
けっして高まらないのである。
もしビリギャルが一年間頑張れば
なんとか合格できるレベルの目標を選んでしまったら
本人のやる気は上がらず、結果として
その目標すら達成できなかったかもしれない。
次に目標設定違いの二つ目は、
「目標が本人にとってワクワクする
目標になっていないこと」
だそうである。
このワクワクするというのは難しく、
本人でさえ自分が何にワクワクするのか
気付いていない場合が多いらしい。
先生によれば、
人には必ず興味のあることや
ワクワクすることがあるのであり、
先生はそれを日常会話の中から
丹念に探り出していく。
ビリギャルの場合、当初坪田先生が
「東京大学と慶応大学、どっちが好き?」
と聞いたところ、
彼女は「東大はガリ勉でダサい
学生が多いイメージでカッコよくない」、
「その点慶応大学はスマートで
カッコいいイメージだよね」と答えたという。
その結果、彼女の価値観の第一は「カッコよさ」
にあることがわかり、受験する大学として
慶応大学を目標に設定した。
(別に東大生がカッコ悪いとは思わないが)
ビリギャルは、
自分がスマートなイメージの慶大生に
なることを想像してワクワクしたのである。
ところでこのワクワク、探し出すためには、
「20答法」や「私の100」、「プラチナチケット」
というワークがある。
「20答法」は「私は〇〇です」の〇〇に
該当すると思うことを20個書き出すことで、
「私の100」は自分の人生の実績を
些細なことも含めて100個書き出すこと、
「プラチナチケット」は、書いたことが何の制約も無く
実現するとしたら何をしたいかを書き出す
ワークである。
これらのワークによって、
本人と指導する人が
その人がワクワクすることを目標として
設定をすることが出来る。
先生の話を整理すると、
「今の自分が想像できる範囲を超え、
かつ自分自身がワクワクするような目標」
設定が正しい目標設定ということになる。
2015年02月08日
坪田信貴先生のセミナーに行ってみた②
「地あたまがいい」という言葉がある。
この言葉は、本人の努力ではなく、
元々本人が備えている基礎知力
のようなものを指している。
スポーツの世界では
「もともと運動神経がいい」などと言うが、
この言葉も同じような使われ方をする。
だが、坪田先生によると
「地あたま」などというものは存在せず、
たまたま成功した人を見ているから
言う言葉に過ぎないという。
坪田先生が書いた「偏差値38のビリギャルが
一年で慶応大学に現役合格した」実話に対して、
「たまたま指導する前は成績が悪かっただけで
ほんとうは頭が良かったんでしょ」
つまり、「地あたまが良かっただけ」と
よく言われたそうだ。
だがそのような言葉は、
彼女が慶大に現役合格した事実を人々が
知っているからそう言っているだけで
もし不合格だったら誰もそんなことを
言わない話である。
つまり、人は事後的に大学のラベルを見て
言っているに過ぎない。
先生によれば数々の同様の実績において、
指導した生徒たちが潜在的に優れていた
ということは特に無いそうで、
だいたい平均的なレベルの学校の中で
学年360人中270番くらいの子が多いそうだ。
(クラスでは40人中30番くらい)
つまり、多くの場合
「才能は元々備わっているものではなく、
努力の結果に過ぎない」
というのが先生の考え方だ。
世の中に神がかり的に頭のいい人が
存在することは確かだが、
それ以外のほとんどすべての人は
努力しないことの言い訳として
「運動神経がいい」とか「地あたまが違う」
と言っているだけのようである。
2015年02月07日
坪田信貴先生のセミナーに行ってみた①
昨日、大手オフィス用品販売会社主催の
無料セミナーを受講した。
自分が受講したのは、
坪田塾の坪田信貴塾長のセミナーだ。
坪田先生は、大ベストセラーであり、
有村架純さん主演で映画化された
「ビリギャル」の著者である。
「ビリギャル」は坪田さんが偏差値38、
学年ビリの女子生徒を、
たった一年足らずの間に
慶応大学に現役合格させた実話を
題材としたノンフィクションである。
セミナーのテーマは、ひと言でいうと
「普通(普通以下)の人をいかに成長させるか」で、
ビジネスの場にも通用する内容となっている。
先生の実績は素晴らしく、
ビリギャル以外にも偏差値40の
男子生徒を国立大学の医学部に
現役合格させたり、
その生徒の42歳の叔父を
同じく国立大学医学部に合格させたりと
他にも数えきれないくらいたくさんある。
「誰だって素晴らしいのだ」というのが
このブログのテーマなので、
このセミナーの内容は何回かに分けて
書こうと思う。
坪田先生がなぜそんな魔法のような
ことが出来るのか、
それにはいくつもの秘訣がある。
だが要にあるのは、
「どんな人でも手順を踏んで
きちんとやれば必ず出来るようになる」
という揺るがぬ信念だ。
つまり人の能力というものに
きわめて肯定的であることである。
冒頭のビリギャルの女子生徒は、
高校二年生になっていたのに
「聖徳太子」を「せいとくたこ」としか読めず、
なんと算数では九九も出来なかった。
しかし女子生徒本人の価値観が何にあるのか、
対話からくわしく聞いた上で、
本人にとってワクワクするような目標を設定し、
それに向かってまず戦略をたて、
詳細で緻密な指導を
根気よく行っていった。
そんなやり方なんて今時どこでも
やっていると思うかもしれないが
そうではない。
坪田先生の場合は例外をつくらず、
直接の学習内容以外のことにまで
それを根気よく徹底する。
先生によれば、
「山の登りはじめこそ細かい声掛けが必要」で、
「いったん心が折れてしまったら山は登れない」
そうである。
無料セミナーを受講した。
自分が受講したのは、
坪田塾の坪田信貴塾長のセミナーだ。
坪田先生は、大ベストセラーであり、
有村架純さん主演で映画化された
「ビリギャル」の著者である。
「ビリギャル」は坪田さんが偏差値38、
学年ビリの女子生徒を、
たった一年足らずの間に
慶応大学に現役合格させた実話を
題材としたノンフィクションである。
セミナーのテーマは、ひと言でいうと
「普通(普通以下)の人をいかに成長させるか」で、
ビジネスの場にも通用する内容となっている。
先生の実績は素晴らしく、
ビリギャル以外にも偏差値40の
男子生徒を国立大学の医学部に
現役合格させたり、
その生徒の42歳の叔父を
同じく国立大学医学部に合格させたりと
他にも数えきれないくらいたくさんある。
「誰だって素晴らしいのだ」というのが
このブログのテーマなので、
このセミナーの内容は何回かに分けて
書こうと思う。
坪田先生がなぜそんな魔法のような
ことが出来るのか、
それにはいくつもの秘訣がある。
だが要にあるのは、
「どんな人でも手順を踏んで
きちんとやれば必ず出来るようになる」
という揺るがぬ信念だ。
つまり人の能力というものに
きわめて肯定的であることである。
冒頭のビリギャルの女子生徒は、
高校二年生になっていたのに
「聖徳太子」を「せいとくたこ」としか読めず、
なんと算数では九九も出来なかった。
しかし女子生徒本人の価値観が何にあるのか、
対話からくわしく聞いた上で、
本人にとってワクワクするような目標を設定し、
それに向かってまず戦略をたて、
詳細で緻密な指導を
根気よく行っていった。
そんなやり方なんて今時どこでも
やっていると思うかもしれないが
そうではない。
坪田先生の場合は例外をつくらず、
直接の学習内容以外のことにまで
それを根気よく徹底する。
先生によれば、
「山の登りはじめこそ細かい声掛けが必要」で、
「いったん心が折れてしまったら山は登れない」
そうである。
2015年02月06日
本の速読には興味が無い理由
世には速読術なるものがある。
一冊200ページの本を
3分間で読むとか、あの類である。
だが自分は速読術をあえて学ぼうとは
まったく思わない。
それは速読術を信用していないからでも
その効用を認めていないからでもない。
「そんなもったいないことをするなんて」
と思っているからだ。
自分の場合、本を読むのは
本の内容を記憶したいからではない。
本を読みながら、あれこれ想像する
時間を味わいたいからである。
例えば2時間の食事時間があるのに
せっかくの美味しい料理を
3分間で食べたいと思うだろうか。
たんに栄養を摂る(知識を得る)だけなら
3分でもよいだろうが、
味わいながら3分で食べることは不可能だろう。
特に面白い本にあたった時などは
美味しい料理と同じで、
残りページが少なくなるのが惜しく、
「わざとゆっくりと読む」くらいである。
とはいえ、たまにつまらない本にあたったり、
短時間で本を読まねばならない場合はある。
そんな時、つまらない本の場合は
さっさと読むのを止めてしまい、
目次と著者略歴だけを読む。
必要な本で短時間しかない時は、
目次や索引から必要な箇所だけ探し、
そこだけを丁寧に読む。
だいたいそのやり方で対処して
特に不都合は起こらない。
本を読む意義の一つは、
記憶目的の場合を除いて
過去の自分の経験や知見と照合し、
考えをめぐらし、
自分だったらどうするかなどと
それに磨きをかけることだと思う。
その意義において
速読はあまり意味が無い
といったら語弊があるだろうか。