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Posted by たまりば運営事務局 at

2015年02月05日

本の効用は他人の知恵や経験を借りられること


最近の人はあまり本を読まなくなった
とよくいわれている。


自分はかなり本を読む方で、
ひと頃は年間平均200冊ちかく
読んでいた。


自分の本の読み方は、
一冊に集中せず十数冊を平行して
読む読み方だが、
今も年間100冊くらいは読んでいる。


ジャンルも様々で小説から
科学系の本、伝記、ビジネス、教育、詩歌
それこそ手あたり次第。


では、なぜ読むのかと言われると
それは「たんに面白い」と思うからだ。


本を通じて学ぼうとすることは勿論あるが、
意図的に「〇〇のため」という読み方は
あまりしない方だ。


しかし、読書の効用は何かと問われるなら、
「自分の引き出しの中にある原石を
他人の知恵や経験を借りて磨けること」
にあると答えるだろう。


人の考えはいろいろあるものであり、
体験していること、したことも自分とは
全く異なっている。


それを本を通じて追体験できるなんて
メチャクチャ凄いことだと思わないだろうか。


人間には平等に一日24時間しか
与えられていない。


だが本を読めば、その何倍もの経験を
きわめて安価に疑似体験することが出来る。


本的な情報取得手段は、
今の時代、本だけではなく、
ネットや電子書籍もある。


たたその中にあってアナログな紙の本は、
脳の情報の受け取り方がデジタルよりも深い
と感じている。


ネットの文章も電子書籍も
テキスト情報としては同じだが、
デジタルの場合、ピュア過ぎて
余計な成分が無い分なんか軽いのだ。


アナログな本というのは、
たんなるテキスト情報ではなく、
あの手に取った時の重さ、
表紙のデザインや紙の質感、
インクの匂い、黄ばんだページなど、


すべてが読み手の心理に
影響を与える舞台装置となり、
人間的な認知の仕方に
深く関わっていると思う。


本を読まない人に
読みなさいとはあえて言わないが、
実に勿体ないなとは思う。



  

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)学ぶこと

    2015年02月04日

    平凡と思えるキャリアを武器にするために必要なこと


    転職や起業に成功している人が
    みんなすごい経歴の持ち主かといえば
    決してそんなことはない。


    ただしこのことには若干の補足説明も
    必要であることは確かだ。


    まず、平凡かどうかは本人が決める
    ことではなくて、他人がそう思うかどうか
    にかかっていることだ。


    本人にとってはたいしたことではない
    と思っていることが一部の他人にとっては
    珠玉のキャリアであることはよくある。


    そしてもう一つ重要なことは、
    そのキャリアを応用できる力が
    本人にあるかどうかである。


    およそサラリーマンの仕事というのは
    組織が大きければ大きいほど
    極めて狭い分野の仕事に限定されている。


    だがそれは逆に言えば
    その分野に関してはスペシャリストでもある。


    その貴重なキャリアが他人にとっても価値あるためには、
    当人に他の仕事でも活かせる応用力があるか
    ということにかかっている。


    日々の平凡と思える仕事の中で、
    たんに右から左に仕事を処理するだけでなく、


    工夫して、改善して、アウトプットの付加価値を
    高めてきたのなら、
    その人は十分に応用力があるといえるだろう。


    またそうでなく、
    ただ処理するだけの仕事しかしてこなかったのなら、
    今からでも目の前の仕事に付加価値をつける
    創意工夫をすることで応用力が養われる。


    真に(他人から見て)価値ある人間とは、
    自分の持っているスキルを別の業務でも
    応用して付加価値を創り出せる人である。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)働き方

    2015年02月03日

    色の違いはスポーツの勝敗にも影響する

    ボクシングを見たことのある方は、
    リングのコーナーには赤コーナーと
    青コーナーがあることをご存知だろう。


    本来色による有利不利は無いはずだが、
    なぜか赤コーナーの選手の方が青コーナーの選手より
    統計的に勝率が高いという。


    プロボクシングでは一般的に
    赤コーナーの方にランクの高い選手が入るので
    ある意味当然の結果だが、


    抽選でコーナーを割り当てる
    アマチュアにおいても赤サイドの
    勝率が20%近く高いというから不思議である。


    また逆に、パソコンのモニターの枠は、
    赤にすると能率が下がり、
    青にすると上がるという。


    テストの問題用紙の上端を赤色にすると、
    他の色のときより成績が落ちる。


    人間科学の研究者によると
    「色にはそれだけで力がある」らしいのだ。


    色に対しては、人間にはあらかじめ
    インプットされている情報が存在している。


    だからモノクロ写真を見た時と
    同じ写真をカラーで見た時とでは、
    カラー写真で見た時の方が
    湧きだす情報量が段違いに多くなるのだ。


    色のイメージは、脳の中に蓄積された
    記憶、学習、経験などと非常に深く関わっていて、


    脳の中に「この色はこういう意味を持っている」
    という情報が、歴史的あるいは経験的に
    インプットされているらしい。


    赤い色の衣服を身に着けると、
    暖かく華やかに感じ、
    生き生きするような気がするのは
    実は脳がそう感じさせているのだ。


    色とイメージの連動は、大脳辺縁系という
    脳の古い方の皮質の中にあって、
    この部分は人間の生命体としての根幹を
    なすところである。


    脳科学の見地からも勝負服というのは
    やっぱり存在するようである。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(1)カラー

    2015年02月02日

    自信と自惚れの違いについて考えてみた


    「自信と自惚れ」、両者の間の違いとは
    一体何だろうか。


    字義通りなら、自信は己を信じることだし、
    自惚れは自分に惚れることだ。


    一般的に自信は他人との関係性が無く、
    自惚れは他人視点から見てそう見える
    ことである。


    サッカー香川選手やゴルフ石川選手は、
    自惚れは無いが自信を失っている。


    両者の違いについては
    いろいろな見解があるが、
    自分は「根拠」にあると思っている。


    自分の中に確たる実績や経験が無いのに
    「オレはすごい」と思っていたら
    それは他人からは自惚れに見える。


    でも実際に出来ていたことを根拠に
    自分はできるのだと思うことは
    自惚れではなく自信である。


    根拠は実績だけでなく、
    勉強や練習、稽古でつくることも可能だ。


    フィギュアスケート選手が
    練習で4回転を高い確率で
    飛べるようになったら
    それは本番でも飛べるという自信になり、
    自惚れではないだろう。


    逆に一度も成功していないのに
    「オレは飛べる」というのは根拠のない
    自惚れにすぎない。


    こう考えると自信というのは
    日々の精進で培うものといえそうだ。


    自分はそれに加えて、
    自身の過去の実績、経験、キャリアを
    ブロックを外して見直すことが
    根拠をつくることに有効だと思っている。


    社会人として長年活躍してきた人の人生には、
    たとえ本人が意識していなくても
    自信の根拠となり得ることが
    いっぱい詰まっていると思うのだ。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)きょうの言葉

    2015年02月01日

    なぜサッカー香川選手やゴルフ石川選手は自信を取り戻せないのか?


    先日ベスト8で敗退したサッカー
    アジアカップのUAE戦、


    最後にPKを外し、敗退が決定した後の
    香川選手の表情が頭から離れない。


    正直、それは正視出来ないほど
    痛々しいものだった。


    ちょっと落ち込んだとか悔しい
    というレベルでは全く無く、
    今後の競技人生が真剣に心配になる
    ような凄まじい表情だった。


    ゴルフの石川選手も同様だが、
    彼等が華々しく活躍していた頃の
    表情と最近の表情は全く違う。


    以前は溌剌として精気に溢れ、
    若々しいオーラに包まれていた。


    しかし今は悩みに支配され
    苦悩の表情しか浮かべない。


    彼等の体力が落ち、
    技術レベルが下がった
    というわけではない。


    むしろ逆で、体力技術とも
    おそらく今の方が大活躍していた頃より
    高いにちがいない。


    なのにどうしてあれほどのスランプに
    捉まってしまっているのか。


    いうまでもなく、今の状況に陥っているのは
    彼等が「自信」というものを失ったからだが、
    ではなぜ自信を取り戻すことができないのか。


    思うような結果が残せず、
    自信を失うことは誰にでもあるが
    ふつうは徐々に取り戻せるものである。


    しかし私見だが、
    彼等に自信が戻らないのは
    彼らの生真面目さ、ストイックさ
    が仇になっていると思う。


    二人に共通するのは理想が高く、
    責任感がとても強く、
    自分に厳しく、真摯なことである。


    だから高いレベルに挑戦した時
    自分に見えた欠点や穴を埋めようとする。


    香川選手はプレミア移籍で感じた
    自分の弱点を意識し、
    それを必死にカバーしようとした。


    石川選手も米国ツアーで自分の
    足りないことを真摯に克服しようとした。


    しかし、持論だが人間のポテンシャルは
    総量が決まっているので、
    欠点を埋めるためには長所の山を削る
    必要があるのである。


    その結果、二人は大きな欠点もないが
    平凡なありきたりの選手になってしまった。


    彼等には、自分の強みが何だったか
    もう一度よく思い出してほしい。


    香川選手の強みは、
    ゴール前のあの敏捷さ、
    シュートを放つ瞬間の独特の間
    ではなかったか。


    石川選手の強みは、
    ショットやパターでの
    怖れを知らない積極性だった
    のではなかったか。


    「角を矯めて牛を殺す」とは
    ストイックで責任感の強いマジメな人にこそ
    贈るべき言葉だと実感せざるをえない。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(1)

    2015年01月31日

    メンタルの弱い人はどうすればいい?


    心技体という言葉があるが、
    仕事でもスポーツでも最後に決め手
    となるのは「心」であることは間違いない。


    ふだんは優秀な成績をおさめているのに
    一発勝負の試験に弱い人、
    オリンピックでは力が発揮できない選手は
    メンタルが弱いといわれる。


    しかしこのメンタル、
    強い人もいれば弱い人もいる。


    その違いが出る理由はおくとして、
    メンタルが弱い、本番に弱い人としては
    どうしたらこれを克服できるのだろうか。


    自分とてメンタルが強いわけではなく、
    打たれ強い人間でもないが、
    人生経験から感じている克服法はある。


    それは不安とか恐怖、心配というのは
    相手、自分の外からもたらされるものではない
    ということだ。


    「〇〇になったらどうしよう」という心理は、
    すべて自分の心の中のものであって、


    相手から見れば自分が心配していようと
    いまいと普通は何の関係も無いのである。


    「普通は」というのは、
    相手が故意に脅そうとかの意思が無い場合
    という意味である。


    恐喝者は、相手に恐怖感を意図的に植え付けて
    メンタルを支配しようとする。


    だが、そんな状況ではない普通の状況では、
    ネガティブな感情はすべて自分の心が
    生み出している産物だ。


    だからメンタルを強化する方法は、
    心の中の自分が生み出したネガティブ感情を
    退治することである。


    自分が「ここまでやったんだから」と
    納得できるまでとことん準備するとか、


    自分で自分に暗示をかけたり
    思い切って気分転換するなど
    方法は人によって様々である。


    自分の場合、
    どんなに仕事で大きなプレッシャーがかかる時でも
    夜眠れないということが全く無かったが、


    それは「心配しても心配しなくても
    結果が同じなら、心配するだけ損だから
    考えることそのものをやめよう」
    と思っていたからだ。


    自分がどう思っていようが
    相手にとっては何の関係も無いのなら


    自分が不安に思ったとしても
    結果には何の良い影響ももたらさない。


    まあ、一種の開き直りだが、
    相手のあることはあれこれ心配しても
    良い結果に対し全く無意味である。




      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)強いメンタル

    2015年01月30日

    プレゼンテーションにおいて伝え方や話し方より重要なこと


    プレゼンテーションの話をもう少し続ける。


    最近の若者は上手になってきているが、
    日本人は欧米人に比べると
    プレゼンテーションが下手だという。


    その理由はいろいろあると思うが、
    従来の日本的社会は、


    何かの理解や合意を得る場面において、
    論理よりも感情でのアプローチで
    それを行ってきたという文化がある。


    「以心伝心」「暗黙の了解」、
    「場の空気で察する」文化においては
    論理的な説明は重視されてこなかった。


    しかしプレゼンテーションでは、
    「結論はAである、なぜそう思うかその理由は
    Bだからである」「その証拠はCである」、
    「だからAという結論なのだ」
    といった感じで相手に思いを伝えようとする。


    これは「以心伝心」とは対極にある
    作業である。


    だから日本人がプレゼンテーションを
    上手にやろうと思うのなら、
    多少の努力が必要となるのはやむを得ない。


    ではどんな努力が必要か、
    伝え方や話し方は重要だが、
    最も大切なことは、
    自分自身が「伝えようと思っていることを
    論理的に整理できていること」である。


    自身の論理展開が破たんしているのに
    いくら美しいスライドで流暢な話法で話しても
    全くの失敗である。


    だが、失敗プレゼンの多くは論理展開が甘く、
    なぜそう言えるのかが論理的に
    つながらないものが多い。


    テクニックは重要だが、
    本質そのものではない。


    まずは自論を論理的に考察し、
    論理を齟齬や破たんのないように
    じっくりとまとめあげることが
    大前提である。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)プレゼンテーション力

    2015年01月29日

    成功するプレゼンの秘訣は至ってシンプルなのだ

    仕事柄、プレゼンテーションを
    聞く機会は非常に多い。


    かつては圧倒的に話す側だったが、
    最近は人の発表を聞く側の方が多い。


    プレゼン内容は技術系の研究成果が多く、
    かなり専門性の高い内容だ。


    だが、発表者の方たちには申し訳ないが、
    内容は良いのにプレゼンが下手過ぎだ。


    世には山ほどプレゼンの書籍が溢れ、
    学校でも職場でも接する機会が多いのに
    これは何としたことだろう。


    「プレゼンとは」という問いに対する答えは
    意外とシンプルで、


    要は「伝えたいことを伝えて
    聞き手の行動を促すこと」に尽きる。


    スピーチは話しっ放しでもよいが、
    プレゼンは聞き手の何かを変えなくては
    する意味が無い。


    プレゼンをする理由は様々であっても
    プレゼンで何かを伝えて
    聞いた人が何かを感じ取って
    次のアクションにつなげてもらう、
    ただそれだけである。


    たんなる報告的なプレゼンであっても
    聞いた人の心に何かを残せれば
    次の行動(心理や感情の変化も含む)
    につながるのである。


    理系の研究発表会などの場合は、
    聴衆の属性が決まっているので、
    的は絞りやすい。


    短時間でランダムにいろいろな
    分野の発表がされるようなプレゼンでは、


    ①なぜこの研究に着手したのか(聞き手との関係性)
    ②言いたいことを一言に要約すると何か(結論は何か)
    ③なぜその結論に至ると言えるのか(実証と立論理由、時に対論)
    ④これだけは伝えておきたいこと(結論の強調)


    これに尽きる。


    経験上も言えることだが、
    プレゼンは短いほど難易度は上がり、
    準備期間も長くなる。


    TVコマーシャルは究極の短いプレゼンだが、
    あの15秒や30秒という短い尺に伝えたいことを
    込めるには並大抵でない努力と準備をしている。


    さらに生の聴衆を相手にするプレゼンは、
    舞台演劇のようなもので一発勝負。


    自分はあがり症でという人は多いが、
    練習、リハーサルで徹底的に磨きをかけずに
    本番をうまく切り抜けようというのは
    虫が良すぎる。


    ただ、プレゼンは
    流暢である必要は全く無い。


    どんなプレゼンでも伝えたかったことが
    伝わればそれは成功である。


    成功への最も確実な道は、
    聴衆がその日最も聞きたいことを
    話すことである。


    伝えたいことと聞きたいことが一致すれば
    そのプレゼンは必ず成功する。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)プレゼンテーション力

    2015年01月28日

    日本の技術は次のステージに入った


    最近我が家では
    電気炊飯器を買い替えた。


    どうせならということで奮発し、
    当家にとってはかなり高額の製品を
    購入した。


    たかが炊飯器、そんな
    に大きな違いはあるまいと思っていたが、
    これが実に凄いのだ。


    機能は数年前のものとそれほど
    大きな違いは無いが、
    炊き上がった米の見た目、
    味は全く違う。


    米のランクが確実に2ランクくらいは
    上がったといって過言でない。


    大げさでなく並みの市販米が、
    魚沼産コシヒカリくらいになる。


    これほどまでに炊飯器が凄くなっている
    というのは自分だけの個人的感想ではなく、


    中国人経済評論家の呉暁波氏も
    同じことを言っている。


    中国人が観光で日本に来ると
    電気製品を買い求めることはよく知られているが、
    最近の売れ筋は電気炊飯器と洗浄便座である。


    経済評論家の呉暁波氏が、
    炊飯器では中国トップの家電メーカー技術者に
    「日本製炊飯器は本当に神秘的なほど
    すごいのですか?」と尋ねたところ


    技術者はしばしの沈黙の後、うなずき、
    「我々としては、どうすればよいのか
    わかりません」と答えたという。


    炊飯器は精密な電子制御と釜が命だが、
    釜のように単純に見えるものに
    最近は凄い技術が集積されていて、
    とても真似できないものなのだそうだ。


    電気炊飯器や洗浄便座は、
    世間一般にはハイテクではなく、
    むしろローテクと思われているだろうが、


    最近はローテクの分野に
    様々なハイテクが込められるようになり、
    日本の技術はあきらかに新しいステージに
    入ったと感じられる。


    日本はこのようなローテクとなった分野での
    ハイテク注入ノウハウが素晴らしく、


    衣食足りて量から質に転換が進んでいく
    これからの世界をリードしていくことは
    間違いないと確信している。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)日本は捨てたもんじゃない

    2015年01月27日

    自分の居場所とは、誰かの役に立っていると実感できる場所


    自分の友人は年齢層が幅広く、
    下は20代から、上は80代の人までいる。


    先日、その中の今年85歳になるMさんと
    会合で一緒になり、
    いろいろな話を聞く機会があった。


    Mさんいわく、
    日本の高齢者福祉は決定的な
    勘違いをしているという。


    ひと口に老人といっても
    健康状態も精神状態も実に様々で、
    今の高齢者にとって押し付けになっている
    施策も多いという。


    特に勘違いが甚だしいのは
    「高齢者の生きがい」についてで、


    どんなことに生きがいを感じるかが
    まるで理解されていないという。


    Mさんに言わせれば、
    高齢者が最も生きがいを感じるのは
    「人から頼りにされている時、
    人の役に立っていると実感できるとき」
    だそうである。


    よく地方で、90歳を過ぎてなお現役で
    農業などに従事している高齢者の人がいるが、


    あれは生活や目先のカネ勘定ではなく、
    自分が誰かに貢献している、
    喜ばれているということを通じて
    社会の一員であることが
    確認できるということが大きいのだろう。


    そんなわけだから、
    Mさんは旅行や観劇をしたりすることよりも、
    趣味の陶芸で作品を造ることよりも、


    造ったものがわずかな金額でも売れ、
    買った人に喜んでもらえた時
    最も生きがいを感じるという。


    核家族化が極限に達している現代では
    想像しにくいが、
    かつての大家族社会では老人といえども
    必ず何かの役割りがあって、
    家族やコミュニティに貢献していた。


    だからつねに居場所があり、
    生きがいが論じられることも無かったのだ。


    かつてある人から
    「人の役に立つ仕事をしたい」と言ったら
    「それも自分目線の一種のエゴ」と言われた。


    だが、世の中の誰にも貢献しない仕事に
    生きがいなんか感じるはずがない。


    かつて聞いた話だが、
    囚人にとって最も辛い課役は、
    「地面に穴を掘らせ、それを埋めることを
    毎日延々と続けさせることである」という。


    人は行動に意味があるからこそ
    継続できるのであり、
    誰かに貢献していると思えるから
    生きていると実感できるのだ。


    先年叔母が亡くなったが、
    彼女はその少し前まで老いた妹を
    自宅で老老介護していた。


    本人にとっては大変な負担だったろうが、
    妹にとっては必要な人であることに
    生きがいがあったのかもしれない。


    叔母は妹が亡くなって
    ほどなく自分も旅立ったのだから。



      

  • Posted by グッドリスナー at 17:00Comments(0)自分の居場所